ソ連極東北海道博物館交流に想う
                                               会長 高倉 新一郎

 私は1902年、開拓が始められたばかりの十勝に生まれ、育ち、長じて余り北海道のことが知られていないのを残念に思い、それを知りまた知らせよぅと、今迄それを中心に勉強して参りました。その間、北海道は目覚ましい発展を遂げて来ました。
 しかし北海道のことは未だ疑問だらけです。北海道は明治日本の最北に位する所として、政治的に重視されて来ましたが、開けるにつれて重大になって来る社会、生活の面では、漸く最近に注意されて来たに過ぎません。北海道は近代日本が基礎として来た温暖多雨の、所謂モンスーン地帯の経験を基礎として来たのに対し、その北端、すなわち寒冷地帯に類似しているのです。ですから、日本人が移民としてこの環境を吾物にして行くことは容易なことではなく、北海道開発史はそれと戦って新しい生活文化を確立して行こうとする歴史だったのです。
 その点では私共は隣国ロシアに学ばねばならなかったのですが、不幸なことに、両国は最初から相容れず、敵対関係にさえ立ち、交流には厚い壁が立ちはだかっていたのです。言葉や文字が違う上に体制も違い、民族も多様なので、近づき難いために、通信も旅行もままならぬので、研究がその近くまで行っても、そこで妨げられてしまったのです。そのために中断せねばならなかった研究が、ことに北海道関係でどの位あったか解りません。
 ただ私達に近づき易い博物館がその役目を果してくれることを知り、それがソ連にはまた学ぶべきことが多いことを知っていました。その途が細くてもいつかつかないものか、それでお互の生活文化が少しでもわかるようになると、両国の壁は薄くなることを知っていました。それが昨年細々ながら道がつき、今年の夏には、ソ連政府の博物館関係者に、古くから日本に大きな関心を持ちその方面での蒐集では聞えたハバロフスクの郷土館長その他が日本を訪れ、北海道の博物館の実情を視察し、両者の交流に積極的努力をすることを語合うことが出来ました。細々ながら小道が開かれたのです。
 私は思いもかけない妨害のために研究を進めることが出来ず断念せざるを得なかった多くの真摯な友人を持っていました。
 その人々は多くの故人ですが、このことを知ったらどんなに喜んでくれることでしょぅ。今は極めてかすかな道かも知れませんが、同じ思いでこれを開くことに早力して下さった方々と共に、これを少しでも大きな切れない道にして行きたいと思っています。
 知識を広げて行くのには、お互いを知り協力して行くことより外にはないのです。
                (北海道大学名誉教授・前北海道開拓記念館長)= 会誌創刊号より =