当別・伊達屋敷 S56,12
はじめに
 本文に入る前に、永年、北海道建築士会とりわけ石狩支部に尽力され、また“いしずえ“創刊の時からも、力を貸して下され、先日永眠されました、栗虫久夫氏の冥福を、本稿を借り、心からお祈り致したいと思います。
 オーバーに長靴の好々爺の姿を思い出します。
 今回は、まもなく完工し、来春からは、新装の、愛らしい姿を見せてくれるであろう、当別町の“伊達屋敷“を紹介致します。
 安易に“伊達屋敷“と表題を付けたが、正しくは“伊達邸別館“という。この建物が建った時代背景を少し述べおきましょう。
当別伊達家概略
 独眼竜で名高い、伊達政宗は、仙台城に移る前に、宮城県玉造郡岩出山町に住んでいた。政宗が仙台に移ると、政宗四男伊達弾正宗泰が治め、以後その子孫が、伊達支藩として一万五千石を領していた。しかし、明治維新によって仙台伊達藩は朝敵となり、六十五石に減らされた。時の盟主伊達邦直(当別町開祖、後、従五位下に徐される)は、北海道移住を願い出(岩出山藩、家老、吾妻謙の献策による)空知郡奈井江町支配を命ぜられたが、交通が不便なので、嘆願を繰り返し、厚田村字聚富に変えてもらうが、現在の聚富をみてもわかるとおり、やせ地である.明治四年四月、邦直に率いられた四十三戸、161人は北海道に渡った。トウベツという肥沃な土地があると聞き、実地調査を願い出、明治四年五月二十八日、開拓を許された。この間の事情は、本庄隆男“石狩川“に詳しい。ちなみに、アイヌ語で、“トー・ベツ“とは、“沼から来る川“の意と言う。
平面図 立面図 詳細図
伊達屋敷
開館前の仕上げ工事
 明治十三年、菊亭脩季候爵来村にあたり、伊達邦直は、迎賓館(!)として建築。以後、多くの名士が来村の折宿泊された。伊達家住宅として使われていたが、昭和五十五年、伊達直宗氏より、町に寄贈があり、現地に曳舞移築したものである。棟飾りのある寄棟屋根で、三間×四間半の二階建てに、棟飾りのつく、切妻の一坪の玄関がつく。平面は玄関を入ると一間幅の廊下が奥まで続き、平面を二分する。
 右は板の間の大広間となり、左は前が板の間で、後は、二階への階段室となる。二階に上ると、八帖の和室と、十帖の床の間が続き、十帖間には、三尺幅で三間の縁側がつく。
 当別町文化財第十二号のこの建物を、移築復元するに当っては、旧材をなるべく使用しようとする意がよくわかる。写真ではよくわからないだろうが、外壁下見板は、表面を焼いて処理し、隅柱は、下部腐朽のため、継いでいる。室内に吊られるランプは、小樽の硝子店製で、火は、電気に変え、電線は、見えぬように工夫するという。工事金額は、曳舞、復元、敷地整備、進入路整備等で一千二百万円弱になるというが、目に見えない金額がかかったり、又多くの寄付、寄贈があり、移築復元にかかった総額はいくらになるであろうか。
余談 −1
2階座敷の人形
 菊亭脩季侯爵−藤原北家西園寺兼季に始まる名家で、邸が京都今出川にあり、今出川氏を称していたが、菊を愛したことから、菊亭といわれ姓とした。京都の名門公卿、菊亭脩季は明治十一年、札幌菊水に二十町歩の農場を開いた。北海道開拓の時代、多くの華族農場が、道内各地に拓かれたが、移住し自ら開墾したのは、彼が唯一人であり、人望もあり、白石村と札幌市が合併後の、昭和二十九年、姓の一字と、豊平川の水をとって“菊水“の地名が生まれた。
余談− 2
 古い建物一住宅をみるとよく、縁側をみかける。そして、雨戸がついている。この寒い北海道、そして省エネが叫ばれて久しい。この雨戸を、断熱防寒戸として、利用することは、出来ないものだろうか。最近断熱防寒戸が出まわってきたが、普及の度合いが、遅々としているのは、なぜであろうか。
おわりに
 最後になりましたが、本稿について、多忙の中、懇切に教示下さいました、当別町役場建設課建築係、教育委員会の皆様、とりわけ技術主幹小林登氏にはここでお礼を申し上げます。
参考文献
 とうべつ物語一当別町企画課 S55
 郷土資料事典一北海道編、宮城県編−人文社 S55
 白石ものがたり −白石区 S53 石狩河畔に立つ本庄陸夫文学碑
 白石−度史ものがたり −白石区老連S53
 北海道駅名の起源一国鉄 S26
 北海道の百年一読売新聞社 S50
 国史大辞典一吉川弘文館 S56