鰊御殿  浜益村濃昼
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はじめに
”顧建築”とは、”古建築”をもじって作ったことばであるが、この古建築ということばについて、お断りしておこう。   古建築といえば、ことばの通り、時代を経た、古い建築物のことであるが、決して、老醜をさらしている建築物でないということを。そしてまた、建築的にみても、しっかりしている建物であるということを。
 現在建てる建物が、今古建築といわれるほど経た年月の後、今古建築といわれるほど、堂々と建ち残る建物は、いくらあるだろうか。建築の技術が進んだ割には、古建築といわれる建物に値する建物が、少いのはなぜであろうか。
鰊御殿
 こう呼ばれる建物は、本道日本海岸に、いくつか存在している。誇大な表現であるかも知れないが、鰊が浜に寄せ、鰊の白子で、海が真白になったといわれる程、鰊漁景気は、想像を超えるものがあったようである。
 鰊漁には、ヤン衆と呼ばれる、多くの出稼人を必要とした。従って、この人達の宿泊施設も必要である。この宿泊施設が、いわゆる、番屋、である。はじめのうちは、番屋と、網元の居住部分とは、別棟もあったが、次第に、一棟におさまるようになった。これら番屋のうち、網元が財にまかせて建てた豪邸−もちろん網元の居住部分のみであるが−を、”鰊御殿”と呼んでいる。
鰊御殿−濃昼・木村源作邸
 この、浜益村濃昼の木村源作邸も、この”鰊御殿”の一つである。
 石狩町を経て北上する、幻の国道231号線は、札幌近郊の道路では、最も快適な道路ではないだろうか。海の青と山の緑に見惚れて、ついつい出過ぎの車速に、あまり気を遺わないで、とばせるのもまた、快適である。
 厚田の街を過ぎ、次のカーブをこえると、濃昼という、そのカーブを半分ぐらいまわると、正面に、濃昼の鰊御殿の美しい姿がみえる。
 木村家遠望
「幻の国道」と書いたが、今では留萌まで通じている。かつては、浜益の群別で行き止まりであった。車の免許を取って、運転したくて仕方がなかった頃、友人とこの道の端まで行ったことがある。当時は当然舗装はしていない。帰り道、砂利がはねて、マフラーを落としてしまい、爆音を轟かせながら帰ってきた記憶が懐かしい。
 平面図 話を本筋に戻そう。
 遠望写真の左側がこれからお話ししようとする建物である。そして、左がその平面図である。平屋で480u。因みに、私が勤務していた事務所面積の倍である。平面図をみて、その規模の大きさを知られたい。
    塔部分拡大  主屋の正面真ん中に、小さい塔がそびえる。多角形の前三面・ベイウィンドウが張り出し、尖った木製の棟飾りがついている。これに、喰い込むように、純和風の起り破風の玄関がある。
 窓は、正面の窓全部が、アーチのある上げ下げ窓。
 和洋折衷が、エキゾチックであり、愛らしい少女を、思わせる。軒にはコ−ニスをめぐらし下見板で丸く打ち上げているのも、心地よい。(コーニス:蛇腹ともいう。洋風建築に見られ、基礎と1階、1階と2階、軒下などに付く繰り形の出っ張り。)
 和風の玄関の屋根には、屋号の飾りがあり、懸魚もついている。
 天井は、今は、いたみがあるが、格子組みである。 
 玄関を入いると、和土より60センチメートル程上がって、中廊下が横にはしる。外観、塔に見えた所は、実は、応接間のポーチである。応接間の壁と天井は、白漆喰仕上げ。天井には、かつては、アセチレン・ランプを吊り下げていたという、その位置に、桜の花と、唐草のモチーフの、簡素なメダイオンがついている。
 床は、今はじゅうたんを敷いているが、その下は、煉瓦を矢筈に敷き、漆喰とセメントで固めてある。かつては、帳場入り口から、直接土足で入れたという。
 当時、濃昼の木村に行けば、応接間というものがあると膾炙され、当別の方からも見学に来たという。
応接間の隣りは、帳場である。幾多のヤン衆が、ここから給金を、もらったことであろうか。

応接間天井照明飾り
玄関の起り屋根裏 応接間床
 平面図左側にある玄関は、ヤン衆の玄関であり、建物裏側まで続く土間で、番屋部分と、網元の居住部分とに分れる。この土間から、網元の居住部分に4段の段がある。居住部分の床下は、中腰で歩けるといわれることも頷ける。
 土間によって網元居住部分とヤン衆部分を分けること、船頭のための部屋があること、ヤン衆の寝る所が、イロリのある板の間部分を、取りまくように配置してあることなど、多くの番屋建築に見られる共通点である
 なお、この家を建てた棟梁は、津軽の人で竣工前に姿を消しているという、和洋折衷の折り合いが原因といわれている。
私などは特にであるが、何か納りが悪くなると、“よしっ、いい。これでいい。”と、己れ自身に妥協してしまう者にとっては、頭が下がり、恥入るばかりである。
 少し、木村家について話そう。現当主、木村源作氏は、六代目である。初代は、木村源右衛門という。青森県東津軽郡大泊の出身で、幕末のころに、蝦夷地渡航の水先案内人として功があり、苗字帯刀を許され、浜益に土地をもらったという。
 文久年間には、已に鰊網を建てていたという。
 しかし、一年を通じてここに居住していたわけではなく、鰊漁期だけここで暮し、鰊かすを作り、漁が終わると、北前船に、鰊粕を積んで故郷に戻ったという。明治の初めに、一族は小樽に移住し、源作氏の伯父、源三郎(明治11年生)が11歳の時、濃昼の住宅は“柱立て、を行なったという。と言うことは、この建物は、明治33年頃の建築であろうか。正面右手の木骨煉瓦造倉庫も明治30年前のものである。
 源三郎の弟哲夫氏が、分家し、濃昼に住み、現在に至っている。昭和29年までは、11カ統の鰊漁場を経営していたというからその豪勢振りは、大変なものであったろう。また、元場所である、濃昼には、2カ統を持っていたという。1ヵ統を経営するには、25〜30人を必要とした。11カ統であれば、およそ300人強のヤン衆を雇用していたことになる。
 私事であるが、お袋の実家も鰊漁家であった。3カ統を経営していたと聞いている。お袋と里帰りをして、天気の悪い時などは、番屋のこのヤン衆の生活部分が遊び場であった。土間からすぐの茶の間には、ここ木村家同様炉があり、自在鍵が下げられ、炉には炭がおこり、炉の上には天窓・空窓があったことを思い出す。炉の向こうには、おばあちゃん(当時はババちゃんと言っていた)がちんまり座っていた。
参考文載
 ・建造物緊急保存調査報告書一道教委
 ・北海道の民家一北海道新聞
 ・ニシン漁労一道教委
 ・にしん漁労一道開拓記念館
 ※本稿を起すにあたり、濃昼木村家の御厚情をここに、深く感謝致します。