三徳山三仏寺

お寺まで
 昨年に続き鳥取県に来ている。平成12年10月27日、建築士会全国大会鳥取大会。全国大会の中身を書こうというのではない。
「顧建築」−人の住まう器の建築物から端を発した“お話”であるが、今回は、信仰の強さを垣間見て欲しい。
 所は、鳥取県東伯郡三朝町、三朝温泉で有名な所の奥。倉吉市からバスで行く。鳥取県の日本海側に沿って東の町が鳥取市、西が米子市。その中間に倉吉市。
 前の晩、あるスナックに行った。明日三徳山に行きたいと言うと、「倉吉の駅で聞いたら、連れて行ってくれる」と言う。まさかと思いながら、米子から汽車に乗り、倉吉まで。駅前でバスを探すが、時間が悪いらしい。出発した後らしい。
 三朝温泉のバスの運転手さんに聞く。「三徳山迄のバスは行ってしまったばかりだから、当分来ない、もう少しでこのバス三朝温泉に行くから、送って行ってやる」という。「えっ」。
 びっくり、驚きである。感激しつつしばらく待つ。
 行ってしまったと思っていた三徳山行きのバスが来たので乗り換えたが、なんと、駅から三朝温泉までの倍以上の距離に三徳山はある。この距離を送ってくれると言ったのか、着いて、びっくりである。
 話が少し長くなるが、バスの中のことを今少し。
 道不案内であるから、三朝温泉を過ぎた頃乗客も我々3人だけになった所で、バスの運転手さんに聞こうと思うと、運転手さんのすぐ後ろにいた女性が聞いている。聞くとも無しに聞いていると、どうやら同じ所に行くらしい。運転手さんも見たこと無い客であるからか、お客さんも一緒かい?頷くと、このバス1時間半ぐらいしたら戻るから、丁度いいよと言う。

三徳山三仏寺 みとくさんさんぶつじ
 さて、山間の川に沿った道ばたでバスを降りる。バスに乗客はいない。
 降りたバス停は、参道入り口ではない。目指す投入堂に近いバス停である。
 この三徳山三仏寺、今は「三徳山」、古くは「美徳山(みとくさん)」と呼ばれ、『伯耆三嶺』(大山、船上山)の一山。
 この山は、白い狼を救ったお陰で三朝温泉が発見される以前から、原始山岳仏教の霊場として栄えたといい、今もなお、三徳山法流修験道の中心で、各種の行事が行われている。

 寺伝を説明しよう。慶雲3年(706年)に役行者が三枚のハスの花びらを散らし、「仏教に縁のある所に落ちるように」と祈ったところ、その一枚が三徳山に落ち開山したと伝えられる修験道場でその後、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁が、釈迦・阿弥陀・大日の三仏を安置したことから「三佛寺(さんぶつじ)」と称したと伝えられています。天台宗のお寺である。

境内案内図
正善院
先ずは、山内案内図に従って、山を登り、道沿いの坊社を見つつ進む。結構きつい坂道である。
三徳山本堂 
 早々に、国宝奥院・投入堂を見たく、本堂のお参りもそこそこに、だけど、高さがあって、なにかアンバランスな感じ。

本堂裏の登山事務所は、寺務所の言葉の方が適切なのではと思える建物。入山届けを記入し、輪袈裟を掛ける。

この意味は後からお教えします。寺を山と言うことから,急な坂道を登るという意識しかない。
山に登るのであるが、事務所から少し下がって行き、枝折り戸を潜り谷まで下りる。川に掛かる朱塗りの宿入橋を渡ると。川の向こうを彼岸と言う、ではここは・・・

川を渡ってすぐの建物・十一面観音堂(野際稲荷)、先ずはお参り。気を入れ、廻りを見る。行く道がない。
 ここは谷底、上に行くにはどこを登るの?崖しかない。
宿入橋   (三徳山HPから)
パンフレットを見る。「カズラ坂」と書いている。
”坂”?坂と崖は違う。
坂はないが葛が剥きでている崖はある。ウッソウ。一足先に来ていた先程のバスの女性もここでたじろいでいる。
胸付八丁と言うが、崖の、カズラに掴まりながらの登山。ようやく登り切ると、ほんの少しの平場。4・5歩行くと、今度は岩場。
 クサリ坂、カズラ坂に続く絶壁。
 岩場には、鎖が下がっている。これは、登山だ。登山事務所の、おばさんの「革靴で、上がるんですか?」が、よく分かる。

カズラ坂から見上げる文殊堂
 同行の女性、降りてきたご夫婦から、手袋をもらう。我々は当然軍手なんぞというものは用意していない。中年気味と老人の男性二人、気持ち悪いのか怪訝そうな面持ちの女性、ここら辺りから、会話をし出す。
重要文化財・文殊堂文殊堂の舞台造り
 岩場から撮すが、舞台造りの脚部しか写らない。岩壁と私の胸の間は1メートルあるだろうか?
 断崖に建つので、見上げても写真は撮れない。後ろ姿しか撮れない。しかも、岩に隠れて、屋根しか写らない。
 岩場をやっとこさ登り、文殊堂の縁側に立つが、手すりが無く、縁側は舞台から迫り出しているので、怖い。
重要文化財・地蔵堂・地蔵堂舞台造
 なお続く岩場。ここも舞台造り、懸崖作りと言った方がぴったり。ここは少し足場があり、横から写真を撮れる。
 文殊堂も地蔵堂も舞台造りで、檜皮葺、手摺り無しの縁側付きと似た建物である。
 見たい投入堂は一番奥。ここまでで1時間、バスは行ってしまった。
文殊堂・地蔵堂の看板 
 この看板、岩場の下にある。どうやって見るの?少し戻って、岩場の下に行くとよく見えるが、看板を見るのに下には行きたくない。
馬の背・牛の背
  (三徳山HPから)
 剣が峰と言う言葉がある。ここからの道は、まさにその言葉通り。その剣が峰を歩く。パンフレットには、「馬の背」とある。この岩場の馬の背骨の道、岩を滑り落ちると、鬱蒼と茂った森林。ふと下を見る。
次の道は足場が広いと言うだけで岩の上を歩くことは変わらない。
町文化財鐘楼 建久年間、源頼朝の寄進と言うが、ここまで如何にして運んだものか?このようなところにあるので、戦時中の金属の供出にもあわなかったとか。重量2トン、いい音が響いた。
馬の背の道が終わったら、今度は「牛の背」、細き険しき道は馬も牛もない、同じだ。
 なおも、牛の背の道を進むと、小さなお堂−重文納経堂−が出現。

 樹間越に観音堂を望む。写真には写らない。

 ここからの道は今までと違って歩きやすい。

納経堂、観音堂、元結掛堂の3堂が並ぶ。写真には撮れない
 町文化財観音堂 側面 巌谷内に建築。三方に入母屋破風を見せる。次に進むには、お堂の後ろを回るか、お堂の縁を通るか。縁を回っても、地面が近くに見えて安心。安置される十一面観音像は重文であるという。
観音堂正面 正面の写真は投入堂お参り後でないと撮影できない。
 町文化財元結掛堂 観音堂の横に小さく建つ。

 元結掛堂を越えるには、雨垂れを潜らねばならない。

 地図からは、もうすぐで、投入堂。

 潔斎の雨垂れ?を潜り、もう少しと思い、足下に注意 して進む。

感激の投入堂 国宝
 滑りそうな足下に注意して岩陰に回ると突如現れる。
感激、の一語。岩山の角を曲がると本当に突如として現れる。
この巌谷にどのようにして、建てたのだろうか。
空中を飛んだという役小角が投げ入れたものだろう。
としか、言いようがない。
見事!!しばし見とれ、離れ難し
 実はこの投入堂、右側が投入堂で、仕切壁!の左側は愛染堂である。和合良縁を願うという。
この坂道を渡ってきたら、仲良くしないと辿り着けはしない。
写真の撮れる場所は、狭い。
今来た道を思うと、いつまでも眺めていられない。
優に一時間半は経っているだろうから。いくら天気が良いとは言え、ここは山間、日没は早かろう。同行の女性、動かず。
そこへ、文殊堂下でギブアップしたと思いきやの田中氏出現、若き女性と中年男を怪しんでのことか、
神仏の導きか、氏も感激。先ずは感激と記念の1枚。これ又、感激である。
終わりに
ここで、三朝町のホームページから言葉を借りよう、三徳山は『「森林浴の森百選」にも選ばれるほど自然豊かな山で、深々と生い茂る原生林。険しく切り立つ岩肌、原生林を背景とした奇岩・岩峰・瀑布・渓谷など、その厳しいまでに本物の自然は、修行の地と呼ばれるにもぴったりの環境です。』
この言葉ぴったり。私も山形の山寺、月山、山梨身延山、香川金比羅さんなどいろいろな社寺の奥の院と言われる所へお参りしたが、坂がきついとか、階段が急だとかはあった。道のない奥の院は初めてである。
 帰り道は楽しく三人で励まし合いながら戻る。以外と早い。改めてパンフレットを見る。登山事務所から投入堂までの距離は700メートルとある。平場の距離?
 世界中に信仰の力で意外な所に建物はあるが、ここも決して負けない。しかし、どうやって、建築資材を運んだものか?2トンもの釣り鐘を運んだものか?岩の上の建築物は地震とか風でずれると言うことはないのだろうか?疑問は残る。
 無事に、登山事務所に戻る。輪袈裟をお返しする。下山届けに記入。三徳山本尊蔵王権現のお陰か、輪袈裟に助けられての参拝であったのか?輪袈裟の数が合わなければ、遭難であろう。
もう一言
 感激のあまり、投入堂を自分のパソコンの壁紙にしている。
 もう一度来る時には、しっかり参道の石段を登ってこよう。
 最後に、ここをお参りする女性の方は決して、パンフレットのようにスカートで登ってはいけません。邪心で言うのではない。ここは、修験道の山、山登りにスカートでは歩けない。