ピアソン記念館
S60,10,5

 今年初めて、建築士会全道大会一北見大会に参加した。もう、21年も前になるが、道東へ修学族行に行った時、北見の街に近づくと、ハッカの香りがしたのを覚えている。また、子供の頃には、ハッカのアメや、紙にハッカを塗ったようなものがあり、ペロペロとなめたことなど思い出しながら、自動車の助手席で、タバコを喫って行った。この北見行は、二人連れで、運転してくれた人と同じ思い・・・隣りが女性であったなら・・・で、然も私は、図々しくも、道の人を運転手にしていた。我ながら、たいした度胸である。口では大丈夫ですかといいつつ、運転を替わりましょうとは一言も言わずにである。

 北見のマチは、明治も終りに近いころ、団体移民である「北光社」によって拓かれた。沢本楠弥に引率された、土佐の移民団約120名によるものである。同じ、明治30年には北方の脅威に触発され、設置された屯田兵3個中隊298戸、642人が入植した。これは旭川市から網走市に至る、上川中央道によるところであり、この道もまた、北海道開拓の一つの遺産でもある。
 囚人を使役して、築造した道路である。北見一網走間には、使役囚人の鎖塚が、開拓の辛酸を今に伝える。
 図々しい奴の話しから、少し湿った話しになったので、開けゆく北海道は、北見の国に、一灯をともした人と、その家を話そう。
 大会の日の午前、ピアソン通りをピアソン記念館に行く。ピアソン=ジョージ・ペック.ピアソンは、アメリカ南北戦争の年、ニュージャージー州エリザベス市に生まれ、ニュージャージー大学(現、プリンストン大学)を卒業し、プリンストン神学校に入いり、卒業の年一明治21416日、牧師として、任職、821日、アメリカを出帆し、日本へ向う。日本へ来てからは、明治学院中学校で教鞭をとりながら日本語を学び、日本の国家主義思想の抬頭により、明治学院を去り、千葉県立中学校で英語教師をしながら、伝道活動をする。明治26年、函館を拠点に、室蘭、伊達そして小樽、札幌にも伝道する。翌年。小樽に居住する。明治28612日聖公会婦人宣教師、アイダ・ゲップと東京で結婚。明治35年、旭川に居を移し、坂本直寛牧師〜倒幕運動に奔走した、坂本竜馬の血縁者、らと協力し、廃娼運動、十勝監獄伝道、軍人伝道、アイヌ伝道、学校教育の振興に尽した。大正3年には、一時アメリカに帰国し、再び、野付牛に移る。パンフを読もう。「柏の古木や楡の大木がそびえ、かるかや、ききようの薫る高台、夕焼けが静かに野付牛の空を焦がしていた。50歳を越した、身長180センチメートル豊かなアメリカ人宣教師と、その夫人が、伝道活動の拠点を求め、遠軽にしようか、ここ野付牛にしようか思案しながら、この高台を、散歩していた。見ると、西の山に大きな太陽が、燃えながら没してゆく。その美しい光景に魅せられて、ピアソン夫妻の迷いは醒め、この高台に住むことを決めた。故郷のエリザベス市の自然に似た美しい高台に、夫人の好む、スイス風の山小屋を思わせる家が、2年がかりで建てられた。当時人々は、この森の中の西洋館を大変珍しがり、夫妻の献身的な人柄を慕い、ここを訪れる人々は絶えなかった。二人は、この高台を『みかしわの森』(三本の柏の木のある森)と呼び、この高台と、この町を、こよなく愛した。ここからは遠くに北光社の開拓地が見え、足もとには、野付牛(現、北見市)のマチの灯が見える。ここは、開拓者とマチの人達の祈りの家となり、聖書を説く神の家ともなった。

通りから見るピアソン邸
説明板
マチを望む丘の家
展示室にもなっている室内
ピアソン邸平面図