国指定史跡 島松駅逓所

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 建築に携さわる者は、建物を建築するばかりが仕事ではないでありましょう。
 建てた建物に入り、ホットされるのが建築家にとって一番のうれしさでしょう。今の世でなく、北海道開拓が行われていた時代、入殖者や、旅をする人にとって、人家のない道を通ってきて休む家がある時は、ひとしおではなかったでしょうか。ここでは、道路交通の一役を担った、駅逓所を御紹介します。

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駅逓所
 今では、限られた人達の間でしか聞かれなくなった、”駅逓”または”駅逓所“ということばを、簡単に説明しましよう。
 北海道の開拓が始まったころ、旧幕府時代から設置されていた運上屋、会所、通行家、旅宿所などと呼ばれていた官設の宿泊、人馬の継立て、通信文の逓送、日用雑貨の販売などを行なっていたものを、開拓使が置かれた時代になって、これらを継承し、改良、整備し、明治5年”駅逓所“と改称したものです。
 これは北海道独特の制度でありました。この駅逓の制度は、日本に郵便制度が発足した後も続き、第2次世界大戦後の昭和22年まで存続しました。
 駅逓所は、現在の郵便局の仕事も行なっていた所もあり、また、駅逓寮と言われた役所も置かれたことなどから、よく郵便制度と混同されますが、全く別のものであります。
 この北海道の駅逓制度は、北海道の開拓の進捗と相まうもので、道路の開発とは密接な関係にあり、交通の補助機関としての役割も大きなものがありました。
 開拓のあまりされていない所に設けられ、奥地の開拓に用をなし、その奥地が開かれると、前の駅逓は廃止され、奥地に設けられるという繰り返しが行なわれました。そのため、各地に駅逓所は存在し、しかも、昭和22年まで制度があったので、その数も相当数になります。地方に行くと、ここは元駅逓であったとか、駅逓所をしていたとか言うのを聞きます。その建物は、今もなお、現役で働いております。
 現在、道内に建っている駅逓所建物で、はっきり知られているものは、20数棟しかありません。

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 島松駅逓所
 ここで話そうとする“島松駅逓所“も、こうした建物の一つで、この建物はまた、行在所としても有名であります。
(蛇足:アンザイショと読みます。「行」を「アン」とよむのは、行燈(アンドン)、行脚(アンギャ)、行宮(アングウ)ぐらいでしょうか)
 島松駅逓所は、北広島市島松に在ります。建築当時は、札幌県石狩国札幌郡月寒村島松と言われていたところです。 札幌一千歳間、旧国道36号線沿いに、南面して建ち、北広島市と恵庭市を分ける、島松川のすぐそばにあります。

修復後の島松駅逓所
島松行在所 この川を越えると、かつては、胆振国千歳郡島松村になりました。
 この建物は、寒地稲作創業者としても有名である中山久蔵翁の建物であります。規模は、建坪88坪7合5勺の平家。
 中山久蔵翁は、明治14年、明治天皇北海道御巡幸の際、休憩所として使用されることを知らされ、同年3月、工を起し、8月に完工、行在所として、26坪、住宅部分62坪7合5勺を新築しました。建築費は、1,350円であった、と広島村史に書かれています。
 ここで“新築”といっていますが、中山久蔵の事蹟を読み、信用するとすれ
ば、これは新築ではなく、増築及び改築が正しいと思われます。
 と言うのは、中山久蔵は初め、同じ島松でも、札幌県胆振国千歳郡島松、石狩国札幌郡島松とは島松川をはさんで反対の恵庭市側に、居を構えており、米作のため、明治6年に現在地に住居を移したものであるというからであります。

     修復完成後の平面図
 建築年代については、資料も少く、決め手となるようなものがなく、確定していませんが、中央住宅部分は、明治7年頃、行在所部分は、明治天皇御幸の明治14年であろうと、されています。
 明治23年、行在所として使われたことから久蔵翁は裏庭の丘の上に、高1丈6尺、巾6尺の「駐蹕処」の石碑を建立、書は、時の北海道長官永山武四郎の筆によるものであります。
 大正5年、建物は、久蔵翁の申し出により、広島村有となりました。
 大正8年2月13日、中山久蔵翁病没、齢92歳。
 昭和2年、広島町開拓功労者の一人である和田郁次郎氏等によって、裏庭に宝物庫を建設。明治天皇御巡幸の時の、使用された品物を納めました。
 昭和8年11月2日、文部省告示第313号を以って、「明治天皇島松行在所」として、史蹟指定され、青年団でも、“行在所守護分団
“を結成し、管理保存をしてきました。
 しかし、昭和20年、史蹟指定解除となり、所有権は、中山久次氏に移りましたが、昭和34年3月、中山久次氏からの申し出により、再び広島村有となり、村では、北海道文化財指定を希望し、同年7月4日、北海道文化財専門委員による、現地調査が行われました。
 その結果、昭和43年3月29日「史跡島松駅逓所跡」として、北海道文化財に史跡指定されました。
 北海道文化財に指定はされましたが、写真の左側が旧国道で、カーブの屈曲点にこの建物があり、幾度と無く、車が表ニワに無断進入があり、村・町はその管理に苦労しました。私が知っているだけでも、3度ほど有りました。事故の修繕やら、維持やらの費用に頭を悩めました。
 昭和59年、国の史跡に指定されました。国の指定を受けようとの努力が実りました。復元工事が始まり、平成2年に修復工事が終わりました。そして、一般公開が行われました。
 駅逓としてより、行在所として話すことになりましたが、もう少し。「行在所」は、現人神がお休みになられたところ。修復工事が行われる前まで、平面図の右側の2室には、注連縄が掛けられ、床には、大きな神棚がありました。
 この駅逓所に来た旅人は、平面図の左側の炉のある部分で、旅装を解きました。そして、板の間に続く2室に宿泊したと言います。この建物の左側には井戸(現存)、厩舎があったと言います。
 駅逓所は、その任務から、厩舎が必要でありますが、遺構として残っているのは、留辺蘂の駅逓所のみであります。
 この建物は、明治6年、札幌一函館間の札幌本道開通後まもなくのもので駅逓制度草創期の遺構として、また、広い土間を取り込んでいることも注目すべきものであります。
ここの土間は、大勢の人が一度に来ても対応できる役目を持っています。冬期間、道らしき道を辿ってきた旅人にとって、ホットする瞬間ではなかったでしょうか。
 ここの場所は、“BOYS BE AMBITIOUS“で有名な、札幌農学校教頭ウィリアム・S・クラーク博士が、学生と別れた地と紹介した方が、わかりやすいかも知れません。そして、その跡には、現在、記念碑が建っています。
 さらにここは、寒地稲作創業の地でもあります。クラーク記念碑と並んで碑が経っています。この建物の裏の丘陵には、多くの碑が建っています。
 ちなみに、写真右には、池がありますが、道庁の池の睡蓮は、ここのを株分けして、持っていきました。その横には、寒冷地稲作の苦労を偲ばせる水田が復元されています。水田前には、水の温度を上げるための蛇行した水路があります。風呂のお湯を流し、稲栽培に努力したと言うことを思い出します。
 道庁の池にはかつて、鮭が上ったとよく言われますが、石狩国と胆振国を分ける島松側にも鮭が上り、旅客の食前にのったと言います。ニワの小屋裏にある棒に鮭を吊したと言われています。
 寒く、苦しい道のりを想像しながら、この建物と、この周辺を散策してみませんか。
御前水 クラーク記念碑と
寒冷地稲作発祥の碑
復元水田・池 駐輦碑