タタミグラ
はじめに
″明朝は、冷え込みますので、水道の凍結にこ注意下さい”とのテレビの字幕も目につく昨今、できるだけ、暖かくしていたい。同じ道内のことを書くにしても、道南のことを書こうと思います。以下に書く建物は、檜山郡上ノ国町に遺る ″倉〃についてであります。
 かつて、同町に赴いた折、同町社会教育課長佐藤正雄氏に、一棟の倉を紹介された。
 外見は、どこでも見られる、木造下見板張りの文庫蔵である。棟木は、破風に隠れていない、中に入って見ても柱はない。かといって大壁造りの建物ではない。
 いわゆる、″あぜくら”である。
 道内では珍らしい特異なこの蔵を、同町の人は. ”タタミグラ”と呼んでいる。
 以下、このタタミグラについて調べた結果を述べます。
 あ ぜ く ら
 正倉院によって、代表される、あぜくらについて少しふりかえってみよう。校倉、甲倉、畔倉等の文字を用いて書かれる。あぜくらは、柱を用いず、木材を組んで壁体を構成する。針葉樹林の多い地方の建築様式である。世界各国にその例はみられる。しかし、我が国で、住宅として用いられたことはない。ほんの一時期.北海道において、開拓期に屯田兵の実験住宅として建てられ住んだことはあったが。我国では、この一例を除くと全て収納倉としての用途である。
″あぜくら”の歴史は古い。人間が、狩猟の時代から定住し、農耕生活に入ると、収穫物を貯える”くら”を必要としたようであり、それは、静岡県登呂遺跡や、尼崎市田能遺跡に復元された倉によって知ることができる。
我国古来のこの倉は、横羽目板壁である。弥生時代からつくられたであろう、あぜくらも、江戸末期には姿を消した。その理由については、すぐおわかりになられると思う。建造の簡便に比べ大量の木材を要するからである。しかし 倉は、やはり必要である。材が足りなくなるから、柱を立て、柱に溝をつけ、板をおとす″おとし倉″へと移っていく。”おとし倉”とは、少し前の石炭を家庭で使っていた時代の、石炭小屋の方式の倉である。更に、倉は柱の間に間柱を立て、薄板を釘打ちする、”板倉”へと移る。
 南都奈良の寺々や、伊勢神宮などに見られる”あぜくら”は、丸太や角材を用いているが、民家に用いられるものは、ほとんどが板材を使用している。これは、”タタミグラ”についても同様である。
 民家のあぜくらは、各地によって呼び名が異なるが、何れも、”井”形している。米などを蒸す、”蒸籠”に似ているためか、”セイロウグラ”と総称されている。
”タタミグラ” も、セイロウグラの一種である。参考までに蒸籠倉の組み方を紹介する。
(新住宅一民家読本(40)−川倉宙次氏、その他より)
 タ タ ミ グ ラ
 調査結果である。
 棟教=41棟。この倉は、”出倉”であり、現在も使われているため、正確な数については確言できない。(出倉=本家から離れた位置に建てられた、その家で大事なもの、日常には使われないもの等を収納する倉。)
 分布=上ノ国町内に限られる。同町の人が呼ぶ、”本村”を中心とする、狭い範囲である。
 所有者の出身地=最初の所有者の出身地−本道に住む人の祖先の多くは、本道以外から渡って来た人がほとんどであり、渡道の時には、文化も一緒に持ってくる。古い時代の物が現在に伝わる時、その物の最初の所有者と、現在の所有者とが違うことが多い。聞き込み調査の際、できるだけ以前の所有者と、その出身地を聞いた。しかし、松前藩が松前に移る以前の本拠地であった土地だけに、世代も、札幌近郊のように、3代、4代前ではなく、まだまだ代が重なるので、自分の何代前が、当地に来たかさえも知らない人が多い。「何処あたりから、来たということです」との答えがほとんどであった。しかし、出身地がはっきりしているところと、考えあわせると、石川県を中心とする日本海沿岸の狭い範囲である。この倉を、祖先が石川県から持って来た、という所有者はただ一人であった。
 日本各地の民家について、調べられている川島宙次氏によれば、「北陸、日本海側で、この種の倉を見たことはない」ということであった。
では聞き込みによる、「石川県」は、どういうことであるのか。
 祖先の出身地では、己に姿を消したということであろうか、渡適して来て、同町にこの倉を建て、それが築壊、移動の利便さによって、同町に普及したということであろうか。
 発生年代=これについても、はっきりしない。
 あぜくらについては、前述のように、古い歴史を持つものであるが、川島宙次氏は、「タタミ倉」の構法からみて、明治時代を、そう逆上った時期ではないであろう。」という。
 用途・工法・構造・名称=破風に隠れない太い棟木、柱が無い。このあぜくらは、蒸寵倉とは呼はれていない。その名の理由は、これまたはっきりしていない。築壊の利便さから、物をたたむの意であるのか、石ダタミと同義に、板でたたんだ倉という意であるのか。
 タタミグラは、出倉として使われ、その性質上、自宅から離れた小高い土地に、ほとんどが建てられている。倉の用途区分からは、全てが文庫蔵である。現在では、各職業の家庭に使われているが、漁家が一番多く、農家が次いでいる。茶室に使われているものもあった。
 当初は、漁家専用であったらしい。居住する本家は、海岸にあり、ここからそう遠くない、小高い土地に建ち、生活の資を得る網を入れる網倉として使われ、高波などの被害から網を守るためである。
 築壊・移動の利便さと述べたが、それは、このあぜくらの構法による。タタミグラ以外の蒸籠倉は、その壁板の組み方が、蟻落し、相欠き、相欠きと蟻落しの併用と、いくつかの組み方があり、横羽目自体に、樋部倉矧、合決りをつけるものもあるが、タタミグラについては、蟻落しのみであり、上下の横羽目は、柄で止まるという、一つの組み方である。
 蟻落しと柄とで、 ”U”形に壁を組み上げると、”ウシ”と呼はれる、太く重量のある棟木を載せ、おさまりをよくしている。これに、”カイグ” と呼はれるノボリを載せる。倉内部から、天井を見上げた時、船の擢に似ているからという説明もあった。この上に野地板を葺くのであるが、これで、完了である。

タタミ蔵の組み方
 屋根は、元来板茸であったろうが、出倉としての、用途・機能がなくなると、瓦茸になり、更には、トタン茸になったものもある。
 壁も、屋根同様横羽目だけであったであろう。それが、下見板で鞘をかけ、押縁を打ち、更には、その鞘がトタンに変ったものもある。
 基礎は、石を並べた上に、土台を置き、束を立て、床を上げている。
 床は、内部は板敷のままであり、外部ではねずみ返しがついている。
 規模、2×3間がほとんどであり、標準規模と思われる。他に、3×5間、1×2間のものもある。階数は、全て中2階であり、階段は、全てが側桁階段である。
土台部分 小屋組 トタン張り、右端の凸部が解るでしょうか
 以上、檜山郡上ノ国町に遺る、全国的に見ても珍らしい建物を紹介した。常にもれず、拙文ではあるが、寒中暖を摂るつもりで書きました。冷や汗だくです。