道のない国道 〜石狩川渡船
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 北海道の屋根ー尊き神々の座「大雪山」に源を発し、上川・空知・石狩の国々を潤し、その母なる川”石狩川”が、その役割を遂げ海に注ぐ最後の町”石狩町”(平成8年9月1日市制施行)ここに、”道のない国道”があった。 
 北海道開拓の初期に展けた土地であるにもかかわらず、つい先日まで人・馬車・自動車を渡していた渡船。
 石狩の風物詩としてばかりでなく、去りゆく彼女達に、人々は感慨無量のものがあろう。
 ここの渡船はまた、国道に存在するものとしては、全国唯一のものであった。
 渡河に要する時間は約10分、交通上のネックとなり、漸く昭和47年、橋が架けられた。
 ”石狩川河口橋”が架けられたことにより、名物”石狩の渡船”も、客船を町営で運航するのみとなった。
また、約1,614mのこの石狩川河口橋は、河川に架けられるものとして、全国一の長さを誇るものである。
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 ここで少し石狩渡船の歴史をふりかえってみよう。
明治 5年以前 渡船の制度は不詳。しかし、渡船場はあり、アイヌが磯船を利用していた。
明治 5年 北海道開拓使石狩出張所設置。 (現、若生町)厚田・浜益方面への交通が多くなる。
石狩の住人小山某が開拓使取締の下に、”私設渡船場”を開設。
渡船料金は、人3銭、馬5銭。当時の日雇人夫賃は男で約10銭であった。
明治 6年 漁場を一般に払い下げたため、出稼人が多くなり、渡船場も繁忙。
明治17年 札幌県、県・国道筋に渡船場54カ所指定。
明治18年 渡船の新造費・修繕費は、全額地方費で支弁され、渡船料金決定には、県庁の許可を必要とした。
人・馬共に1銭に引き下げられ昭和初期まで据え置かれた。
”公共料金の据え置きの”の魁!!
明治35年4月1日 2級町石狩町となる。
明治37年 渡船場事業を町経宮とする。
特別会計により、施設拡張。しかし、事業は個人請負いのまま。
明治40年 花川村吸収。1級町石狩町。
明治43年 石狩川が災害河川の指定を受け、治水工事が始まった。
大正 9年3月1日 付指令第330号をもって、道庁より正式に渡船場施設認可。
大正10年 渡船場経営は、小山某が私設渡船場を開いて後、津軽藩士金沢又エ門、その子又太郎、松木五三郎と移 り、当年松木五三郎の子清太郎となり、平岩良二、山本林蔵を経て、
昭和 9年 田中周作が請負い、約7年間続けた。
昭和16年 札幌北自トラックが、約1年間行い、
昭和20年 再度山本林蔵が約8年間行い、
昭和27年8月18日 個人請負いを改め、町直営渡船場とし、有料で経営した。
昭和28年 道のない国道一幻の国道は、準地方費道札幌留萌線、2級国道231号線となる。
昭和30年9月11日 無料国営渡船場として、礼幌開発建設部が維持管理を行い、これを石狩町に委託した。
昭和35年5月 左岸渡船場待合所完成。
昭和42年2月 道開発庁、石狩川河口橋建設計画を発表。
昭和43年1月 河口橋試験杭打ち始まる。
昭和43年2月 河口橋修祓式。
昭和47年7月 河口橋開通(第1期工事完成)
昭和47年7月20日 河口橋開通に伴い、車運船廃止。(客船のみ運航)
昭和53年3月31日 渡船廃止。
昭和53年4月1日 代替バス運航。
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 渡船のおいたちは、以上のようである。
 次に、思い出話などを述ペよう。渡船の料金は、明治18年以降、昭和の初期まで、人・馬とも1銭であった。このため、渡船請負者が渡船を新造しようとしても、費用の半額が補助されるとはいえ、とてもとてもという状態であった。
 しかし、時代が変るにつれ、利用者も多くなり、渡船料金の他に、”チップ”を出すのが通例となった。このチップの方が、渡船料金よりも多くなったという。
 また、戦前までは、町在住者に対して、回数券のようなものがあり、町以外の者よりは安く利用できた。これらのことは、戦後、物価統制令により廃止された。
 しかし、これも昭和30年には、無料となり、おもしろい思い出話も少なくなった。
 昭和2年のことである。
 渡し守の畠山正蔵は、酒の好きな温厚なのんぴり型の人柄で、ある陽気の良い日、おみきを飲んで、対岸の客を乗せるため磯舟を出したが、対岸に着く前に、居眠りをし、漂流9日間の後、天売島に深意、無窮救出されたという。石狩天売間は、直線で約130Km、現在使用している機船で約8時間かかります。
 また、昔の石狩川は、きれいで、そのため冬期間は容易に結氷されました。そうなると、秋のうちに切り取っておいた柳などの枝を、雪や氷で固めた”氷橋”を作り、人馬を渡したといいます。
 この氷橋は2トン程の荷馬車も通れたほど丈夫であったという。両岸に木を立て、太いロープを張り、もし氷橋から落ちた場合は、このロ−プにつかまるようにしたという。一般の人馬が、この氷橋を渡る時には、さほどに気を遣わないが、軍隊の渡る時などには相手が御国の楯なので、最後の一兵が渡りきるまで、見守り掛けたという。
 冬の話しついでにもう−つ。結氷によって船がこわれたりするので、船に水を入れ、沈めておいた人もいたという。
 渡船に乗る時の話。今でこそ、電動の乗船台があるが、以前は、船と桟橋の間には、車輪巾の板二枚を渡し、車などはこの上をソロソロと渡ったというが、このために転落した事故は一度もなかったということである。
 痛ましい話も残る。昭和20年11月、渡船に梶をつけず、船頭も乗らないで運航したため転覆し、男女合わせて3人が死亡した事故があったと言う。また、引越荷物を積んだトラックを乗せたまま転覆し、荷物を全部流失させてしまった事故もあった。
 石狩川は鮭の漁場でもあり、鮭漁の時期には、渡船場付近に、いつも網が仕掛けられ、渡船の運航がおくれたり、ホリカモイの鮭曳の船と毎度のように喧嘩をしたという。更には、道庁に仲裁をしてもらうこともあったという。
 渡船を利用する人達は、殆んどが顔見知りで、うさん臭い人が来るとすぐわかり、警察に連絡し、泥棒などをつかまえることも容易であったという、良き時代でもあった。
 以上は、渡船廃止に伴い、昭和48年3月、北海道開発建設部、石狩町より出された”とせん”を要約したものです。