顧 ・ 建 築

 起稿する毎に、次稿には、しっかりした文を載せよう載せようと、思いつつも、どこかのパンフレットなどから、建物の紹介文に、メリハリを付け、自作の文のような顔で、寄稿する。古建築に心を寄せる者としては、好ましいことではないことは知りつつ……。今回もまたそうである。
 今回は、全道建築行政連絡会室蘭会議出席の折、見学会で観た鞄本製鋼所室蘭製作所の“瑞泉閣”について。
 鞄本製鋼所室蘭製作所は、明治40年、北海道炭鉱汽船株式会社と、イギリスのアームストロング・ウィットウォース会社、ビッカース会社の3社共同出資によって、設立された会社である。
3社の頭文字、ATVを重ねマークにし、瑞泉閣洋館部分各室の、暖炉上部の鏡の額縁に付けてある。

 瑞泉閣
 鞄本製鋼所室蘭製作所、茶津山中腹に建つこの建物は、明治・大正・昭和の3代にわたって、皇室専用の御宿泊所、休憩所として使われてきた。戦後の一時期、一般公開もあったということであるが、米軍の接収、老巧化による危険もあるということから、一般公開は止めていたので、知る人は少いという。本所勤務の人達も、この建物は、中まであまり見れないということであり、今日の見学会で、観せていただいたことは、まことに有難いことである。

瑞泉閣洋館部

 さて、この連物は、大正天皇の春宮時代、室蘭製作所を行啓されるということで、明治438月上旬着手され、同年9月下旬上棟式、同年12月下旬竣工、明治448月、内部装飾、外部庭園その他一切竣工。同年95日行啓。洋館部を御宿泊所に充てられる。96日、当社会長山内男爵他数名御陪食仰付けられる。男爵は、当御来館は、恰も天、沢泉と相対し、殿下御駐泊の光栄の礼を述べ、旅館御命名を言上。
東宮太夫に申し付け置くとの応えがあり、還啓の後、“瑞泉閣”の命名があり、杉孫七郎子爵揮毫による額一面の下賜があった。

玄関−洋館部に和風起り破風

 以後、瑞泉閣は、各宮殿下室蘭台臨時の宿泊所、休憩所として使われ、昭和11年、今上陛下北海道行啓に際しても、御駐輦所として使用された。
 総面積502.7平方メートルのこの建物は、瓦葺屋根、外壁簓子下見板張りで、起り破風の車寄せが付く、武家風の、木造303.4平方メートルの日本館部分と、屋根は矩勾配スレート葺、外壁は、色付漆喰仕上げのルネッサンス様式のレンガ造、1993平方メートルの洋館部分とに分かれ、廊下でつながれている。両部分共に基礎は、布コソクリートを廻す。少し詳しくみてみよう。

瑞泉閣扁額
日本館部分
 この建物の玄関は、日本館部分にある。起り破風のある車寄は、柱芯で2間×2間。床には、中国産花崗岩を4半石形に敷いてある。
 玄関の敷台は3段になり、床は桧及び桂板、腰羽目は、腰長押を付け、桧板を張る。玄関と、玄関広間の仕切は、2間を建具4枚建てにし、中2枚は引分紙張腰障子、両脇2枚は框舞良子黒漆塗で杉柾板張りの舞良戸である。
 玄関広間は、10帖間で、内法長押を付け、天井は、杉板張り。正面には、伊藤博文の額を載げており、左に折れ次の間に入いる
床の間

。ここには、東郷平八郎の額があり、なお進むと、洋館部の廊下になる。右手に和室が並び、左手には、見事な日本庭園が拡がる。2間続きの和室で、付書院付床の間が、「上座敷」その隣が、「次の間」である。12帖半の上座敷の天井は、12寸巾の杉柾である。内法長押天井長押が付く。
床は、巾9尺、奥行3尺。四方柾目栂の床柱に艶消黒漆塗の床框、落掛は四方柾目の杉赤身、備後表の上等品の高麗縁り付の畳床である。天井の鏡板は、杉柾1枚板である。床脇の違棚、地板は欅材、袋棚の小襖は、艶消金箱置き仕上げとしている。付書院の棚板は欅、地袋の小襖は、上等鳥ノ子金砂子置き仕上げ。

縁側
10帖の次の間の境襖は、154枚建てとし、上等の葛布張りで、欄間は四方柾艶消漆塗の桧材で組子としたオサ欄間、又、和室は、次の間にみるように、上座敷に準じた仕上げとしている。
 浴室については、壁はレンガ、セメントモルタルとし、腰は高3尺の杉板羽目張りにし、その上部は白漆喰塗仕上げ、床はコンクリートでモルタル仕上げ、その上に木製の簀子を置く。天井は格縁天井とし、中央の空気抜きは桧で網代組としている。浴槽は南部桧づくり。面白いことに、給湯はボイラーでおこなわれる。室蘭で−番早いであろうといわれている。近藤某氏が考案したもので、銅製である。浴室外にあり、古い表現であるが、数分間
洋間

で、30立方尺の冷水を熱湯とするとある。カラソは、ニッケルメッキの自在カラソ。
 日本館部分の縁側廻りは、全て米桧板で、化粧軒裏は杉板である。日本館部分の軸組は、栂・杉を、小屋組には仙台桧、造作材には杉・栂・欅・桂を取り混ぜて使用とのこと。電灯については、各室に応じたコードペンダントを使用。

続いては洋館部
 レンガ2枚厚とした壁で、間仕切壁はレンガ1枚半厚とし、廊下は木造。洋室は4室続きで奥の間一御寝室にはバルコニー風のも

暖炉と鏡
のと、4室の外側に廊下と、二つの廊下がある。洋館外部は薄鼠色漆喰仕上とし、内部は白色漆喰仕上げである。小屋組は洋小屋組で、本州松材を使用。足掛は、和歌山県那智から取り寄せたスレートを、鱗張りに葺き、矩匂配に3本の煙突がたつ、切妻屋根であり、中央に避雷針がたつ。
出入口、窓の開口部は、ルネッサンス様式にまとめ、内部腰羽目は、額縁を付けた桧製のバネルとし、腰上は日本製金泥置花模様型紙張りで仕上げる。蟻壁は白漆喰塗とし、天井はオーストラリア産のスチールシーリングを白艶消ペンキ塗で仕上げている。室の間仕切りは桧製折戸で、必要ある時は、一方に折込んで
洋間
3室共開け通し、一室とすることができるという。奥の間以外の3室にはストープが付き、その前飾りは、茨城産大理石で、灰留石は仙台産スレートの厚坂、火床蓋は高3尺、巾25寸の絹張り縫取り模様の衝立を廻してある。奥の間の御寝室は、バストイレ付きである。便所は、便器・手洗器共外国製品で、床の模様付タイルもまた外国製であるとか、大便器は洋風としたが、明治44年の行啓の折には、殿下の使用しやすいよう、臨時に絵材で改造したという。浴室は、床・腰羽目共外国製タイルを張り付け、浴槽も外国製で内部瀬戸引の鋳鉄製、カランは日本館同様ニッケルメッキの自在カラン。
シャンデリア

 窓は全て、上げ下げガラス窓で、外部に防虫用として、上等紗張りの枠を嵌め込みにしている。内部は、間仕切の折戸1カ所と同様、桜製で彫刻付ラッカー塗仕上げの枠を取付けている。
 緞帳は、表面の色合わせをし、エビ茶の緞子織で、裏面は表地の色合わせになって繻子、両端は雷紋縁仕立て、上飾りと下部は総て絹製縄フレンヂとか、括房は表地の色合せと同様。窓の緞帳には花模様のレースが取り付く。括房金物はニッケルメッキの彫付柳葉形である。窓につく日除けは、上げ下げ窓には米国製のロ−リングシャッター、出廊下の窓には、オリーブ色の和式無模様のもの、側廊下の窓には外国製の七子織シーツ地である。また、日本館の廊下と窓掛には、金巾を使用。床についてみれば、3室共、毛切花模様ジュータンの同一のものを敷込み、御寝室の奥の間だけは、花模様の緋色ジュータソを敷詰にしてある。
 電灯についてみれば、表2室には、金メッキ5灯用シャンデリア1個と、四隅に金メッキパイプベンダントが付き、次の間には3灯用クラスターとパイプベンダント2個が付き、奥の間にはコードベソダソト、ブラケットランプ各1個が付けられている。また、廻廊下には2灯用シャンデリア2個、便所・浴室には各々シーリソグライト1個が付いている。ちなみにこれらのシャンデリアや、各所各種の線型は、英国製であるとか。

庭園についてみれば
 日本庭園の趣きとし、樹木は有珠山・札幌地方から、オンコ・トド松・ツゲ・シダレ杉・白ツツジ・ドウダン・クンシヒバ・楓等を運び、庭石は飛石と共に有珠山地方より、沓脱石、短冊石、鏡石等は中国産花崗岩、雪見灯篭は有珠石とか。洋館庭先には円形の花壇を設け、全体には芝植をし、便所外廻り、大手廻りには建仁寺垣を廻し、庭をまとめる。
 明治44年、行啓時には、日本館玄関車寄三方に紫縮緬の幕を張り、車寄から玄関・広間・次の間・洋館廊下共殿下御居間まで、緋色ジュータンを敷詰、和室同様の金屏風をまわし、床はジュータンの上に、高麗縁付きの畳を3帖敷並べ、夜ともなると、御庭先・旅館上り口・玄関前石垣の高台に、500燭光のアーク灯を設け、庭園内の樹内には、10燭光の紅灯数百を飾ったそうである。